今日の短編(79) 堀江敏幸「スタンス・ドット」

スタンス・ドットとはボーリングで立ち位置の目安にする床の印のこと。アプローチ・ドットとも。このスタンス・ドットとファールライン手前のリリース・ドット、レーンの中にあるガイドを目安にボールコントロールをするのだという。これまでなんとなく目安にしてはいたけれども、今調べてみたらこのドットを用いてかなり意識的にストライクが出せるのだという。


ストライクを取るために立ち位置を変える。いつも同じ立ち位置でストライクを狙う。器用な生き方、不器用な生き方。うまく合わせる生き方、愚直にまっすぐな生き方。


ボーリングに材をとっているけれども、これは生き方の話だ。自分の決めたスタンス・ドットで良かったのか、目指す音色を聞くことはできたのだろうか。見えないものが見えるような、聞こえない音色が聞こえてくるような。読了後しばしこのボーリング場を夢想して耳を傾けた。

音が均一にはじけ飛ぶのではなく、すべてのピンが倒れたあと、レーンの奥で一度、見えない大きな球になって、ゆっくり加速しながら投げての方に押し出されてくる。それがいちばんよくわかるのは、第三レーンと同一直線上にあるカウンターで、だから彼は、可能なかぎりその場に立つことにしていた。

ただひとつ確かだったのは、ハイオクさんの投げた球だけが、他と異なる音色でピンをはじく、ということだ。ピンが飛ぶ瞬間の映像は同じなのに、その一拍あと、レーンの奥から迫り出してくる音が拡散しないで、おおきな空気のかたまりになってこちら側へ匍匐してくる。ほんわりして、甘くて、攻撃的なにおいがまったくない、胎児の耳に響いている母親の心音のような音。彼はなんどかその音と立ち位置の秘密をさぐろうとしたのだが、スタンス・ドットは、立ち位置を変えるためのものでなくて、それを変えないためのものなんだよ、わたしにとってはね、と笑って答えなかった。

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

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