石垣りん「はなよめ」

結婚式前日に散髪に行った。以前のお向かいさんがやっている床屋だ。小学校の終わりか中学入りたてくらいから高校を卒業するまでの6、7年間定期的に切ってもらっていた。大学に入ったころから、次第に足が遠のいて切ってもらうのは、数年ぶりだった。「久しぶり」と話をしているうちに、話すつもりはなかったのだけれど、「実は明日」と話をしていた。妻のほうの支度は朝一番からあるけれども、僕の方は特に何もせず起きぬけの頭でいくつもりだ、と話をしたら、「明日、朝おいでよ、やってあげるよ」と言ってくれた。翌朝7時半だったか、8時だったか、普段だったら勿論かいてんしていない時間に、店を開けてくれ髪をセットし、お祝いをしてくれた。随分長いこと忘れてしまっていたけれども、そんなことがあったのを思い出した。

知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中でむこう向きにうなじをたれていると思った。

高校生のための文章読本

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