今日の短編(44) 森鴎外「普請中」

帰国した鴎外を追いかけて来日したドイツ人女性がいる。名はエリーゼ・ヴィーゲルト。小説「舞姫」に出てくるヒロインとほぼ同名の女性だ。授業ではそのことに触れないことが多い。実在のモデルがいるらしいと知ると、「舞姫」は森鴎外の経験談、ノンフィクションであると短絡することが多いからだ。作品として成立している独立したテキストとして読まれるべきだと思っている。

とは言うものの、鴎外と再会することなく帰国したエリーゼが、もしも鴎外と再会していたら、という後日端としての短絡的な連想を思わず生じさせられる作品でもある。

「日本はまだ普請中だ」

国語を教えている身として「舞姫」以外に読んでいる作品がほとんどないのが致命的に痛い。しばらく集中して森鴎外の作品を読んで勉強しようと思う。

森鴎外「普請中」

靴が大分泥になっているので、丁寧に掃除をして、硝子戸を開けて這入った。中は広い廊下のような板敷きで、ここには外にあるのと同じような、棕櫚の靴拭いの傍に雑巾が広げて置いてある。渡辺は、己のようなきたない靴を穿いて来る人が外にもあると見えると思いながら、又靴を掃除した。
あたりはひっそりとして人気がない。唯少し隔たった処から騒がしい物音がするばかりである。大工が這入っているらしい物音である。外に板囲いのしてあるのを思い合わせて、普請最中だなと思う。
誰も出迎える者がないので、真直に歩いて、衝き当って、右へ行こうか左へ行こうかと考えていると、やっとのことで、給仕らしい男のうろついているのに、出合った。

「大丈夫よ。まだお金は沢山あるのだから」
「沢山あったって、使えば無くなるだろう。これからどうするのだ」
「アメリカへ行くの。日本は駄目だって、ウラジオで聞いて来たのだから、当にはしなくってよ」
「それが好い。ロシアの次はアメリカが好かろう。日本はまだそんなに進んでいないからなあ。日本はまだ普請中だ」
「あら。そんな言を仰ると、日本の紳士がこう云ったと、アメリカで話してよ。日本の官吏がと云いましょうか。あなた官吏でしょう」
「うむ。官吏だ」
「お行儀が好くって」
「恐ろしく好い。本当のフィリステル*1になり済ましている。きょうの晩飯だけが破格なのだ。」

山椒大夫・高瀬舟 (新潮文庫)

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所収

*1: (独)俗物