今日の短編(25) 吉本ばなな「電話」

心を大きく動かされた出来事というのは、その場所や空間や行動の記憶と一緒に記憶に刻まれている。
具体的に自分の人生でこんなことがあったと思い出せるわけではないのだけれど、そうなんだよなぁと思う。そんなふうにじんわり沁みてくる。この人の文章の特徴なのかもしれない。

吉本ばなな「電話」

雑音は変わらないのに、なぜかものすごくはっきり聞こえた。とても音のきれいなスピーカーから聞こえたような澄んだ響きの言葉のひとつひとつが、耳元で強い意味を持って体の中にはいってきた。ダイビングをしていて、海の中では身振りだけで考えを伝え合っていたから言葉は交わしていないのに、海面に出た時、すごくその人としゃべった後のような気がしているのによく似ていた。別に雑音が消えたわけでなく、精神がそれを排除しただけだった。集中して、ぐっと心の距離をつめて、コミュニケーションした時特有の聞こえ方だった。意味だけが直接入ってくる

まだ若くて子供じみているというのが、なにか外的な力で、本物の人生の重みに多少は変わらざるをえなくなる瞬間がくるだろうと思っていた。子供じみているのを恥じているのではなく、成長の瞬間を逃したくないだけだった。その時の自分の考え、いかに受け止めるのかに信頼を置き、ゆだねようと思っていた。

私は、雅彦がどうであれ苦しみませんようにと、ただ祈った。思い出や思い入れが入り込むすきもないほど、熱心に、十分間と決めて時計のアラームをセットし、血管が切れるくらい集中して祈った。悲しいのは私だが、死んだのは本人で、いちばん驚いているのは本人だろうから、とにかく地上から私のこの祈りのエネルギーを注ぎ込めるようならすべて彼に注ぎ込み、安らかになるように、と祈った。

不倫と南米―世界の旅〈3〉 (幻冬舎文庫)

不倫と南米―世界の旅〈3〉 (幻冬舎文庫)

所収。