今日の短編(80) 堀江敏幸「イラクサの庭」

闇のなかを寝ずに走りつづけて戻って来られた安堵、息子を取り戻した安堵にひたるまもなく、すぐに仕事へむかおうとする母親の姿は、立派だと思う。でも、わたしなら、仕事はいったん休んで、ひと晩、雨の泥炭地を抜けてきた子どもに、なにか食べものをつくってやりたい。イラクサのスープでもなんでもいい、身体があたたまるものを、口に入れてやりたい。

食に関する記憶は非常に強く残っているものだと思う。読了後まっさきに思い出したのは作品の内容とはまるで遠い、20年以上前に食べていた白菜漬けの記憶だった。


自宅から電車で30分ほど離れた祖父の家の近くで勉強を教えてもらっていたことがある。ピアノ教室を開いていた祖母の教え子のお母さん、という人に高校入試までの1年から1年半ほどの期間、土曜日の夕方に英語と数学を見てもらっていた。勉強帰りには祖父の家に寄り、祖母の作った夕食を食べさせてもらっていた。


普段親せきで集まるときは10人以上の大所帯で、いつも叔母や母や腕をふるっていたので、祖父母と僕の3人だけでの夕食、それも祖母の手作りのものをいただくというのはとても珍しかった。テレビは大概プロレスか野球のナイター中継で、食べ終わると祖父が猫のメイ(五月に拾われたので)を膝に抱いてお茶をすすっていたのを覚えている。


僕は漬け物は苦手で、今でもほとんど食べないのだけれども、白菜漬けだけは好きで良く食べる。祖父の好物で毎週食卓に上がっていたのを一緒に食べているうちに好きになった。古漬けの白菜の葉に少し醤油を垂らして、御飯を巻いて食べる。祖父の真似をするうちにいつの間にか食べられるようになっていた。他にどんなものを食べさせてもらったのかはあまり良く覚えていないのだけれども、この白菜漬けのことは良く覚えている。

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

雪沼とその周辺 (新潮文庫)

所収
これまでの[短編小説]カテゴリはこちら