今日の短編(70) よしもとばなな「デッドエンドの思い出」

当たり前だと思っていたこと、平凡だと思っていたこと、退屈な繰り返しだと思っていたことを、繰り返し、繰り返し、繰り返す、幸せ。

「私は、のび太くんとドラえもんを思い出すな。」
私は言った。
「なんだよ、漫画の話じゃないか。」
西山君は言った。
「私はその絵が描いてある小さな時計を持っているの。のび太くんの部屋のふすまの前で、ふたりは漫画を読んでいるの。にこにこしてね。そのあたりには漫画がてきとうにちらばっていて、のび太くんはふたつに折ったざぶとんにうつぶせの体勢でもたれかかって、ひじをついていて、ドラえもんはあぐらをかいて座っていて、そして漫画を読みながらどら焼きを食べているの。ふたりの関係性とか、そこが日本の中流家庭だっていうこととか、ドラえもんが居候だってことを含めて、幸せってこういうことだな、っていつでも思うの。」

「私は、うちのサンドイッチ屋がなくなるなんて考えただけで淋しい。毎朝会うお客さんにももう会えなくなったり、毎日孫にフルーツサンドを買っていくぼけかけたおばあちゃんがどうなるのかとか、そういうこと想像しただけでも泣きそう。」
「お嬢様だなあ、そういう人生もあるんだなあ。」
「子どもすぎただけだよ。それに、子どもでいたほうが喜ばれる環境にいたから。」
高梨君も私の世間知らずなところにほっとしていたのだと思う。
「いい環境にいることを、恥じることはないよ。武器にしたほうがいいんだよ。もう持っているものなんだから。君は、帰って、またいつか誰かを好きになって、いい結婚をして、お父さんとお母さんと交流を絶やさず、妹とも仲いいままで、その場所で大きな輪を作っていけばいいんだ。君にはそういう力があるし、それが君の人生なんだから、誰にも恥じることもないよ。相手が君の人生からはじき出されたと思えばいい。」
「そう言われると、気が軽くなる。自分が何か間違っているからこうなったと思ってしまいそうだったから。でも、私は自分の幸せをそういうところに設定しているから、どうやってもかわることはないし、ちゃんと帰ってまた生活を始めたいと思う。
「そうだよ、これで外に出て行こうなんて思ったら、それは傲慢っていうものだよ。世の中には、人それぞれの数だけどん底の限界があるもん。俺や君の不幸なんて、比べ物にならないものがこの世にはたくさんあるし、そんなの味わったら俺たちなんてぺしゃんこになって、すぐに死んでしまう。けっこう甘くてしあわせなところにいるんだから。でもそれは恥ずかしいことじゃないから。」

「俺にはわかるんだ。ああいう人って、ものの見方がすごくパターン化しているんだよ。あのね、ずっと家の中にいたり、同じ場所にいるからって、同じような生活をしていて、一見落ち着いて見えるからって、心まで狭く閉じ込められていたり静かで単純だと思うのは、すっごく貧しい考え方なんだよ。でも、たいていみんなそういう風に考えるんだよ。心の中は、どこまでも広がっていけるってことがあるのに。人の心の中にどれだけの宝が眠っているか、想像しようとすらしない人たちって、たくさんいるんだ。」

「東京に落ち着いたら、また連絡先を教えてね。もし東京に行ったら、必ず遊びに行くから。」
「うん、ぜひ来て。」
お互いにそう言いながらも、もう、二度とあの楽しい日々は帰ってこないから、もう会わないんだろうな、と思っているのがわかった。

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

デッドエンドの思い出 (文春文庫)

 所収