今日の短編(61) 藤沢周平「ど忘れ万六」

ほら、あの、あれだよ、あれ。喉元まで出掛かっているのだけれどもど忘れして名前が出てこない。たまにある。しばらくぶりにあって「先生、おぼえてますか?」なんて試されると、名前を思い出せるまで、ものすごくドキドキしてしまう。万六のとぼけ具合が、あだち充の絵と物凄くマッチしそうだと思う。

「片山どのですな」
「いや。それがしは片岡ですが」
「そう、そう。片岡どのだ」

四半刻ほどして、万六はひと声気合を発すると腰をひねった。とだんに、「あいた、た」と言うなり腰に手をやって暗い地面にうずくまったが、その頭上に両断された木槿(むくげ)がゆらりと倒れかかって来た。刀は眼にもとまらず鞘にもどっている。

たそがれ清兵衛 (新潮文庫)

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