加藤周一「スペイン旅情」

10年ほど前に妻とヴェネツィアに行った時のこと。その直前までパリに数日滞在していて、パリではレストランやカフェに行くと、日本語はもちろん通用しないし、英語も(もともと頓珍漢なんだけれど)、片言でもフランス語じゃないとやーだもーん、と思っているんだろうなというのを感じていた。外国ってのはそういうもんかと、イタリアでも同じようにイタリア語を要求されるんだろうなと、ホテルのチェックインで「ボンジョルノー」と挨拶しながら入っていったら、驚いた。

見るからにラテン系の濃い感じのお兄さんがニコニコ笑いながら「チェックインですか。にほんご、だいじょうぶですよ。」と言うのだ。僕のへっぽこイタリア語はまるで黙殺安心して日本語お使いください状態で、拍子抜けしたのをよーく覚えている。

そのホテルが特別だったわけではなくて、ヴェネツィア島内のレストラン・みやげ物屋・カフェのあちこちでイタリア人の従業員の口から日本語を聞いて、ものすごく助かるのだけれども、なんだか遠く異国までやってきて、外国人の日本語を聞くということに不思議な気持ちにさせられた。

現地の言葉でなんとかコミュニケートしようと勢い込んでいるのに、まるっきり肩透かしをくらって、不完全燃焼のような気分だったように思う。観光がつまらなかったのかというとそういうわけでもなく、イタリアを数ヶ所まわった中では一番楽しめて又来たいと思った場所でもあったのだけれど。

遠く異国に行ったり来たりしているのならば少しでも現地の言葉を使ってコミュニケーションをとる努力をすべきだよなと思う。以前の会社では、どうもそうは思っていないような本社勤務の外国人が多かったように思う。

そこでどれほど簡単な用を宿屋で弁じるにも、スペイン語を操らねばならない。その代わりこちらの言い分を聞いた給仕の男は、私は発音の誤り、文法の誤りを根気よくなおしてくれた。なおしてもらった後で、もう一度口上を正しく述べ、さて給仕が用を足しに出かけると言う段取りである。
「私はスペイン語が上手だが、あなたの言葉はよくない。」と彼は言った。

しかし彼はたしかにスペイン語が上手で、上手であることに誇りを―外国人はスペイン語以外の言葉を、彼自身がスペイン語を自由に話すのと同じように、自由に話すかもしれないという可能性を忘れるほどの誇りを、持っていた。

高校生のための文章読本

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