小林秀雄全作品から(4) 「教育」
身も心もおじさんですから、などとうそぶきつつ、内心すぐ近くに寄り添っていたつもりだったけれども、気がつけば、彼らと僕の年齢上の差はどんどん広がっていく。はじめから大変なことだったけれども彼らの世界をなんとなく理解するだけでも、その困難は年を追うごとに増してきている気がする。もっと全力で。もっと渾身の力で。もっと深く。もっともっと力強く。一期一会のこの時を大事にしたい。
- 「教育」昭和30年(1955)6月「朝日新聞」に発表
火は、またたく間に、町を総なめにして、颱風を避けて集っている港の船まで焼払った。全町民は、着のみ着のままで逃れた。東京の教科書屋さんが機を逸せず、大量の教科書を岩内町に送りつけたところ、目算は外れた。大多数の生徒たちは、教科書だけは抱えて家を飛び出していた事が判ったのである。
青少年の実態は、もっと深く隠れている。なぜ隠れているか。それは私達大人には取返しがつかぬ若さそのものだからである。不思議な事だ。もし私達が、力を傾けて、精神の上で、これを奪回しようと努めなければ、決して青少年にめぐり合えまい。
私は教育者ではない。種々の点で教育者としての資格を欠いていることを、はっきり知っている者だが、怠け教師としての十年の経験で、青年の向上心を、こちらが真っ直ぐに目指し近附く時に、青年は一番正直に自分を現す、という事は教わったように思う。
ある日、学校で講義をしていた。大変困難な問題で、私は、これをどう解明しようかと悪戦苦闘していた。他を省みる余裕はなかった。しばらくすると、あやふやな手附きで、手を挙げる生徒に気附いた。質問ならもっとはっきり手を挙げたらどうだと言うと、「先生、教室が違います」と彼は言った。これには驚いた。粗忽をわびて、降壇したが、だれも私の失敗を笑うものはなかった。笑ったが好意の笑いであった。今でも、その時の学生諸君の態度を忘れずにいる。
- 作者: 小林秀雄
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