今日の短編(11) クレア・キーガン「波打ち際の近くで」
漂白したような清涼感。少し白すぎる気はするけれども。
クレア・キーガン「波打ち際の近くで」(CLOSE TO THE WATER'S EDGE by Claire Keegan)
「あと一時間だ、マーシー。それだけしかない」と彼は言った。「一時間たって戻ってこなかったら、置いていく。あとは自力で帰ってくるんだな」
半時間、彼女は裸足で泡立つ波打ち際を歩き回った。断崖沿いの小道を歩いて戻り、樹木の陰から夫の姿をうかがっていた。約束の時刻を五分過ぎると、夫は車のドアをばたんと閉め、イグニション・キーを回した。彼がちょうどスピードを上げ始めたところで彼女は道路に飛び出し、車を停めた。そして車に乗り込み、死ぬまでその男と人生をともにした。彼女を置き去りして行ってしまいかけた男と。
出し抜けに祖母のことが頭に浮かぶ。はるばる遠くからやってきたというのに、祖母はたった一時間しか海辺にいられなかったのだ。故郷の川では泳ぎの名手であったにもかかわらず、水の中に入りもしなかった。どうしてと彼が尋ねると、祖母は言った。どれくらい深いかわからなかったから、と。どこから深みが始まるかわからなかったし、どこでその深みが終わるかもわからなかったから。
- 作者: 村上春樹
- 出版社/メーカー: 中央公論新社
- 発売日: 2006/01
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