「やる気」が出せるかどうかが問題

内田樹の研究室 2006: 階層化=大衆社会の到来

メリトクラシーというのは、努力するものに報いる制度である。
それは「誰でもその気になれば努力することができる」ということを前提としている。
しかし、「その気になれば」というところに落とし穴がある。
というのは、世の中には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がおり、この差異は個人の資質というよりも、社会的条件(階層差)に深くリンクしているからである。

「総合的な学習」や「体験学習」は学力よりも創意や自発性を重視したカリキュラムである。
これが教育的に「コレクト」であるとされたのは、学力には「生得的・後天的なばらつき」があるが、創意や自発性はすべての子どものうちに等しく分配されているということを人々が信じていたからである。
しかし、いったい何を根拠にして、創意や自発性や、自然体験や職業体験を通じて「学ぶ喜び」を見いだす能力が「すべての子どものうちに等しく分配されている」ということを人々は信じられたのか。
教室での「勉強」以外の学習においても、学習意欲の高い子どもと低い子どもの差は歴然と存在する。
そして、しばしば、その差は学力以上に既決的である。
例えば、「本を読んで自分の感想を自由に書く」というのと「漢字を100個覚える」というのでは、何となく前者の方が自由度の高い、学力差のつかない教育法であるような感じがする。
しかし、家庭内に語彙が豊かで、修辞や論理的なプレゼンテーションにすぐれた人間が何人もいる子どもと、そうでない子どもの間では「自分の気持ちを自由に表現する」ことにおいてすでに決定的な差が存在するだろう。
親の一方が英語話者で、家では英語と日本語をバイリンガルにしゃべっているという子どもが「英語で読み書きする」教科でハイスコアを取るのを見て、たいていの人は「それはあまりフェアな競争ではない」というふうに考える。
しかし、親が「すぐれた日本語話者」である子どもが「日本語で読み書きする」教科でハイスコアを取ることを「フェアな競争ではない」と考える人はほとんどいない。
それは「日本人は誰でもみんな同じように日本語が使える」とみんなが信じているからである(少し考えれば、そんなはずないことにすぐ気づくはずなのに)。
同じように、「努力さえすれば報われる」という物言いが通るのは、「すべての子どもには『努力する能力』が等しく備わっている」と人々が信じているからである。