064 「誰の言葉か」はなかなか無視できない 「自分探しと楽しさについて」森博嗣から その4

正論としてうなずくことはできるものの現実では真逆だと読んでいて一番抵抗を感じた一説。「コンテンツ」が指し示すものが「作品」であればコンテンツと作者の距離は比較的離れているけれども、「意見・主義主張」となるとコンテンツとその発言者とを切り離して評価することはほとんどできないように思う。「自分が言われるとき」にはそのコンテンツを素直に評価するよう心がけたいと思いつつ。


以下、まとまりのない箇条書きではあるがメモを残す。

 意見というのは、基本的に「理論」である。それはそれを発言した人間からは切り離して捉えなければならない。誰が言っても、正しいことは正しい、間違っていることは間違っている、という判断をするべきだ。こういう立場を取っていれば、自然に、考えが違う相手であっても、人間として親しくつき合うことができるようになるだろう。
(中略)
いい加減な人間が偉そうな口をきいたときにも、「それはそのとおりだね」と素直に返したい。「君にそんなことを言う資格はない」なんて言わない方が良い。発言は自由なのである。
(中略)
 結局のところ、どんな場合にあっても、コンテンツを素直に評価することが一番大切である。情報というのは、コンテンツだけでは伝わってこない、なんらかのメディアが必ず伴う。誰の口から発した言葉なのか、その人間の過去はどうだったのか、などあれやこれやと余分な情報が付随し、渾然一体となって伝達される。そこから、その本質だけを抽出しなければならない。


同じ事を言われるのでも、「なるほどそうだよな」と思うこともあれば「あなたにそんなことを言われたくない」と内容を判断する以前に拒否反応が出てきてしまうことがある。ある人の言葉を聞こうと思えるか、そしてその内容を素直に聞くことができるかどうかはそれ以前の関係が築かれているかどうかの比重がものすごく高い。


赤の他人が正論を述べていてもそれは自分とは何の関わりもないただの言葉。街頭での様々な演説や募金活動、宣伝、キャッチセールスと想像すればいい。知人友人が同じ事を言っているとその人のバックグラウンドも含めて「過去のあれやこれやがあって今この意見なんだ」と思える。山ほどの人がすれ違う交差点やラッシュアワーの電車の中は自分以外は赤の他人、他人と認識してすらおらずじゃまな物体だと思っていることもあるかもしれない。


耳が痛い注意や批判に対しては正論以上に発言者との関係性が占める割合が大きくなる。誰に注意されても悪いことは悪いと認識して言動が正せるようになるには結構な時間がかかる。自分が言われるときにそう感じるのだから、こちらから言うときに相手が同じように感じるのも無理はない。


学校で言えば教えていない生徒に話をしたときの反応でそれがよくわかる。この子にとっては僕はまだ赤の他人なんだと思わされる事がたくさんある。こうなって欲しいああして欲しいといういう事をきちんと伝える為には順番を踏んでいく必要があると思っている。まず赤の他人から顔見知り、知っている人になり、それから話ができるようになって初めて何かものを言ったときにそれが彼(彼女)に素直に聞いてもらえるようになる。そういう実感がある。

自分探しと楽しさについて (集英社新書)

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