時習小学校の思い出

豊島区立自習小学校が今はもうないということを今朝知りました。ニュースを聞いたか見たかしたことはあったのかもしれないけれど、アンテナが鈍っていて見過ごしてしまっていたのかもしれません。大学に入ったばかりの僕に幾つかの喜びと驚きを教えてくれたのが自習小学校でした。

1992年、児童文化研究会のS藤先輩と2人で、山中湖移動教室の指導員として行ったのが初めてでした。卒業生のS水先輩が赴任していて、その関係で紹介されたアルバイトでした。卒業したばかりの先輩がもうそこで教師として働いている。僕は大学受験が終わって入学したて、開放感で一杯の遊びほうけていた時期で(そしてそれは4年間続くのですが・・・)したが、大学で4年過ごしたあとには社会に出て働くんだということを最初に意識させられた瞬間でした。

大きなヘマもせず、問題なしと思っていただけたのか、仕事は1度きりで終わらずに毎年声をかけていただけました。最初の2年間はS藤先輩と一緒に、大学3年4年の2年間は後輩の otosan やS藤君を連れて小学校を訪れていたように思います。(実は、10年以上も前のことでメンバーや回数は定かではないのですが)

移動教室では、とても張り切った記憶があります。バスの中やキャンプファイヤー、肝試しではもう精一杯子どもを楽しませようと、山ほどゲームをやったり歌をうたったりと遊び倒しました。子どもは好きで中学時代から地域の子供会から依頼を受けて行事(お楽しみ会、キャンプ、クリスマス会、歓送迎会・・・)を企画して運営していく活動をしていたので、ゲームも歌もクイズもお手の物でした。子どもたちももの凄く喜んでくれて僕も嬉しかったのを覚えています。

でも、そのバスの中が盛り上がっているさなかも、担任の先生は参加しないでのんびり外の景色を眺めていたりするのが、なんだか不思議だったのも覚えています。考えてみると、僕がやっていたのは中学高校時代の延長で子どもと「遊んでいただけ」だったのです。ただの遊び相手ではなくて、教師(もしくは指導員)として子どもと接するときの距離感だとか、立ち位置だとかといったものを意識するようになったのもこの経験がきっかけだったかもしれません。

とにかく、いろんな体験をさせてもらった気がします。1クラス20人弱という少人数にも驚きました。近所の小さな商店の子どもたちが多く、こち亀両さんの世界みたいだと思ったり、外国籍の子どもたちも何人もいて都心の国際化に思いを寄せたり。グランドは全面ラバー張りで、それほど大きくはないけれど、打ち合わせに行ったあとに前年度移動教室に行った学年の子どもたちに声をかけてもらって、フットベースやドッヂボールをしたり、校長先生に東京都を受けたら良いのにと言っていただいたり・・・。

今日はずっとそんな風に時習小のことを思い出していました。
グーグルのイメージ検索で探してみたところ、いくつか写真が見つかりました。懐かしいなあ