「君のためなら千回でも」カーレド・ホッセイニを読んだ

泣いた。嗚咽が止められない。今年一番、いや2007年に読んだ本を全て合わせても1番のオススメ作。
君のためなら千回でも(上巻) (ハヤカワepi文庫)君のためなら千回でも(下巻) (ハヤカワepi文庫)

わたしがいまの自分になったのは、一九七五年、十二歳の冬の、ひどく寒いどんよりと曇った日のことだ。その瞬間を、いまでも覚えている。わたしは崩れかけた土塀の後ろにしゃがみこみ、凍った川のそばの裏路地を覗き見ていた。遠い昔の記憶だが、過去について人がいうことはまちがっている。過去を記憶の底に埋めてしまうなんて、できるものじゃない。過去は自分から這い出てくるからだ。いま振り返ってみて、わたしはあらためて思い知った。自分がこの二十六年間、あの人気のない裏路地をずっと覗き見ていたことを。

よく読むブログの上記エントリで知って以来、読みたくて読みたくて仕方なかったが、アマゾンでも書店でも見つけられない。絶版か・・・と思っていた矢先この本がスゴい2007: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいるで文庫化を知り、即、購入。アマゾンではこんな紹介がされている。

二〇〇一年夏、パキスタンにいる友人から一本の電話がくる。この電話回線の先にあるのは、わたしの過去、まだ償いの終わっていない罪…。電話を切る直前、彼はふと思いついたようにいった。「もう一度やり直す道がある」小さい頃、わたしは召使いであるハッサンとよく遊んだ。追いかけっこ、かくれんぼ、泥棒ごっこ、そして凧あげ。わたしはちゃんとした学校へ通っていて、読み書きもできる。しかし、ハッサンは世の中の「真理」をすべてわかっているようだった。真理とは、愛や慈悲、そして罪、というものについてだ。十二歳の冬の凧合戦の日。ついにそれが起こる。記憶の底に決して沈めてしまうことのできない罪…。他人を救うことの困難さ、友情、愛、畏れについて深く考えさせる、アフガニスタン出身作家の鮮烈なデビュー作。

タイトルの「君のためなら千回でも」が重要な場面で効いている。語られる世界の激しさも、淡々と物語るその口調に、やわらげられながら、最初の一文から最後まで一行まで休むことなく読まされてしまった。

誰にも邪魔されない時にお一人でどうぞ。