一日の中に永遠を見なければ永遠はない

2学期の授業で読んだ加藤周一さんの文章の中に、こんな一節がありました。孔子が、重い荷物に苦しんでいる牛をかわいそうだから助けようと思ったそうです。弟子は、中国に牛はたくさんいて、それぞれ苦しんでいるのだから、目の前の一頭だけ助けても仕方がない、といいます。孔子はこの牛は自分の目の前にいる、だから助けるのだ、といって答えた。この話を受けて、こんな文章が続いています。

一人の人の命が大事でない人は、ただ抽象的に何百万の人の命のことをしゃべっても、それはただ言葉だけであって、本当の行動につながっていかない。行動につながるのはやはり情熱がなければならない。その情熱の引き金はやはり、一人の人間、良く知っている人たちの存在です。目の前にいる牛だとか私の知っている少年とか、アンゲロプロスの自伝的な感じのする映画『永遠と一日』に出てくる偶然町で出会った見ず知らずの少年です。一日の中に永遠を見なければ永遠はない。一日は一日であって大したことはないというのだと、永遠というものは見えない。だから、もし永遠と言うものがあるとすれば、一日の流れが永遠なわけです。難民となった沢山のアルバニア人と一人の少年とは同じです。

目の前の小さなこと、大したことではないと、思ってしまうようなもの、そういう小さなものを大切にすることが本当に大きなものにつながる。毎夕必ず机の上をきれいにしてから帰る人、生徒の書いた日記に毎日必ずコメントを返している小学校の先生、正門で生徒に挨拶をして迎える教師。定型の返事を返すだけでよいのだけれど、頭に必ずその方へのメッセージを付け加えて返信する人、他人は見ないコードだけれども、効率だけでなくキレイさ(端麗さ)を求めるプログラマ。毎日10分だけと勉強をするサラリーマン。10個ずつ単語を覚えようと頑張る受験生・・・・・僕らのこの小さな行動の一つ一つが、自分自身を作り、ものの見方や考え方を変え、相手や社会に少しずつ変化をもたらしていく、その原動力になる。

 インターネット上の問題だとか課題だとか、ついどこかで他人や事業者任せにしてしまってませんでしょうか?
 「○○すべきだ」と思っても、実際に行動したり、言葉にするのはちゅうちょしてしまったりしていませんでしょうか?
 まぁ、とはいえ、では自分がこの半年、心を入れ替えてインターネットやブログをめぐる環境を変えようと動いてみて、何かかえられたのか?と言われると、実施できたことはまだまだ本当にたいしたことではないのも事実なのですが。
 でも、やっぱりインターネットを作っているのは、インターネットを利用している私たち自身なわけで。
 他人事のように議論するのではなく。
 誰かがやってくれればいいのにと、他力本願になるのではなく。
 それを皆でどうやって越えていけばいいのか、それを皆で考え、そして考えるだけでなく、小さなレベルでも実際に行動に移していくことが大事なんじゃないかなーと思います。

「突き抜けろ!限界論 -第8回OBIIミーティング」から一夜明けて、第3セッション「メディアとプラットフォーム」のパネラのお一人、徳力さんの上記のエントリを読みました。読後、冒頭の孔子の話を思い出しました。

どうせできないと考えて終わりにしてしまわないで、自分のできることをコツコツと続けて行く。どんな小さなことでも、行動に移すこと、声を上げること、発信すること、それが、遠いようで近道なんです。きっと。