三島由紀夫「奔馬」

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

奔馬―豊饒の海・第二巻 (新潮文庫)

豊饒の海」第二巻。20歳の若さで夭折した松枝清顕が、転生して自分の前に現れたことに気がついてしまったことは、本多繁邦のその後の人生にとって不幸なことだったと思う。

前作「春の雪」の登場人物が何人も再登場する。世俗的な成功は手に入れながらも、誰もが、見渡せばすぐそこにいそうな、俗物と化してしまった観がある。それに唯一抵抗しているのが、清顕の生まれ変わり、飯沼勲。彼だけが自らの手で思うような死を選び得た。

もろもろの記憶のなかでは、時を経るにつれて、夢と現実とは等価のものになってゆく。かつてあった、というここと、かくもありえた、ということの境目は薄れてゆく。夢が現実を迅速に蝕んでゆく点では、過去はまた未来と酷似していた。
ずっと若いときには、現実は一つしかなく、未来はさまざまな変容を孕んで見えるが、年をとるにつれて、現実は多様になり、しかも過去は無数の変容に歪んでみえる。そして過去の変容はひとつひとつ多様な現実と結びついているように思われるので、夢との境目は一そうおぼろげになってしまう。それほどうつろいやすい現実の記憶とは、もはや夢と次元の異ならぬものになったからだ。

人通りのない町の、雨にしおれたその家の貌(かたち)を、坂の上から一望に納めたとき、勲の心には一瞬ふしぎな印象がよぎった。何だかこの家を見るのははじめてではないという感じである。雨に包まれた総二階の、あたかも古いばかに背の高い茶箪笥を雨ざらしにしたような趣、庭は緑がいたずらに多く、剪枝摘葉をなおざりにして、丁度その板塀が屑のはみだした緑の屑箱のように見える様子、この陰鬱な家全体が、かつて何かきわめて甘美な、心の奥底に湧き出る暗い蜜のような記憶とかかわりがあるような心地がする。一度たしかにここへ来たことがあるという感銘の神秘は、思えばかなりあやしげなものだ。そえrはともすると子供のころ父母に連れられてこの界隈へ来た実際の記憶に基づいているのかもしれず、又あるいは何かの写真でこの家を既に見ているのかもしれない。ともあれこの家の貌(かたち)は、彼の心の深い霧の裡に、ちいさくても完全な箱庭のように、きれいに保たれている気がしたのである。

突然、寝返りを打ちながら、勲が大声で、しかし不明瞭に言う寝言を本田は聴いた。
「ずっと南だ。ずっと暑い。……南の国の薔薇の光の中で。……」