三島由紀夫「暁の寺」

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

暁の寺―豊饒の海・第三巻 (新潮文庫)

豊饒の海」第三巻。世俗の泥にまみれ、年を取るごとに本多は醜くなる。松枝の転生も輝きを失い、かつての透徹した美しさはどこかへ行ってしまった。

雑草を抜く、土を掘り返す、種を植える、水をやる、植物を育てる、素足で歩く、思いっきり走る、木登りをする、川で遊ぶ、ザリガニを釣る、大声で歌う・・・。あとでといって忘れられることが多いもの。「便利」で「文化的」なものに囲まれることがいけないとは僕は思わないけれども、便利に背を向けているものも知っていたほうがより良いとは思う。三島由紀夫を読んで思ったのはそんなことかよ、いう感じでは在るけれども、そんなことを思った。

慶子を招じ入れて、炉傍の椅子に座らせると、本田は薪に火をつけたが巧く行かなかった。これだけは東京から専門家を招いて作らせたので、煙が逆流して室内に充ちたりする不手際はなかったが、本田は薪を燃やすたびに、自分の生涯のどこを探しても、こういうもっとも質朴な知識や技術に親しむ機会のなかったことを思わずにはいられなかった。かれはそもそも「物」に触ったことがなかったのではないか?