恩田陸「夜のピクニック」

当たり前のようにやっていたことが、ある日を境に当たり前でなくなる。こんなふうにして、二度としない行為や、二度と足を踏み入れない場所が、いつのまにか自分の後ろに積み重なっていくのだ。卒業が近いのだ、ということを、彼はこの瞬間、初めて実感した。

みんなで、夜歩く。たったそれだけのことなのにね。
どうして、それだけのことが、こんなに特別なんだろうね。

むしろ、長時間連続して思考し続ける機会を、意識的に排除するようになっているのだろう。そうでないと、己の生活に疑問を感じてしまうし、いったん疑問を感じたら人は前に進めない。だから、時間を細切れにして、さまざまな儀式を詰め込んでおくのだ。そうすれば、常に意識は小刻みに切り替えられて、無駄な思考の入り込む隙間がなくなる。

過ぎてしまえば、みんなで騒いで楽しく歩いていたこと、お喋りしていたことしか思い出さないのに、それは全体のほんの一部分で、残りの大部分は、仏頂面で、足の痛みを考えないようにしてひたすら前に進んでいたことをすっかり忘れてしまっているのだ。

「そう。きっと、本人はまだ若いつもりで、頭の中では歩行祭の絆創膏貼ってるつもりなんだ。『またマメが出来そうだ、なにしろ八十キロ歩くんだから気をつけないと』なんてブツブツ呟いてる。隣で息子のヨメが「まあおじいちゃんたら、また高校時代の話をしてるわ」って孫に言うんだ」

「うん。『しまった、タイミング外した』だよ。なんでこの本をもっと昔、小学校の時に読んでおかなかったんだろうって、ものすごく後悔した。せめて中学生でもいい。十代の入り口で読んでおくべきだった。そうすればきっと、この本は絶対に大事な本になって、今の自分を作るための何かになってたはずだったんだ。そう考えたら悔しくてたまらなくなった。」

「なんて言うんでしょう、青春の揺らぎというか、煌めきというか、若さの影、とでも言いましょうか」
「凄い台詞。梨香に聞かせてやりたい」
忍は低く笑った。
「うまくいえないけど、そういったものだよ。臭くて、惨めで、恥かしくてみっともないもの。あいつにはそういうものが必要だと思うんだよね。

「大体、俺らみたいなガキの優しさって、プラスの優しさじゃん。何かしてあげるとか、文字通り何かあげるとかさ。でも、君らの場合は、何もしないでくれる優しさなんだよな。それって、大人だと思うんだ」

みんな、ギラギラしてるからね。僕たちは、内心びくびくしながらもギラギラしてる。これから世界のものを手にいれなきゃいけない一方で、自分の持ってるものを取られたくない。だから、怯えつつも獰猛になってる。だけど、甲田さんは、ギラギラもびくびくもしてないんだよね。
貴子は苦笑していた。
それって、最初からあきらめてるってことじゃないの?
ううん、違うよ。甲田さんは許してるんだ。他人から何かもぎとろうなんて思ってないし、取られても許すよってスタンスなんだ。それも、取られる前からね。

貴子も慌てて走り出す。といっても、大集団に囲まれたままのスタートなので、周囲がそのまま移動していくのは変な感じだ。
始まっちゃった。始まっちゃった。
頭の中ではそんな声がぐるぐる回っている。まだ心の準備が出来ていないのに、身体だけ持っていかれるような気分だ。

「だから、きっと、同じものなんだよ。片方から見ると憎しみで、片方から見ると罪悪感。恋愛だって、似たようなもんだと思う。いいじゃん、誰が見ても素敵な人がいて、一緒にいたいと思って、二年間一緒にいられたんだから」

「でもさ、もう一生のうちで、二度とこの場所に座って、このアングルからこの景色を眺めることなんてないんだぜ」

ようやくここに辿り着いた。やっとこの時が来た。その目がそう言っていた。

「あっというまだったなあ」
「何が」
歩行祭
「うん」
「夏休み明けくらいから、ずっと歩行祭のこと考えてるじゃん。考えてるっていうか、ずっとどこかで気に掛かってる。でも、実際はたった一日で、足が痛いとか疲れたとか文句言ってるうちに終わっちゃうんだよな」
「そうなんだよね。始まる前はもっと劇的なことがあるんじゃないかって思ってるんだけど、ただ歩いているだけだから何もないし、大部分は疲れてうんざりしてるのに、終わってみると楽しかったことしか覚えてない」
「そうそう」
「でも、修学旅行よりこっちのほうがいいな。卒業生がそう言うの、分かる」
「うん。俺もこっちのほうがいい」

並んで一緒に歩く。ただそれだけのことなのに、不思議だね。たったそれだけのことがこんなに難しくて、こんなに凄いことだったなんて。

何かが終わる。みんな終わる。
頭の中で、ぐるぐるいろんな場面がいっぱい回っているが、混乱して言葉にならない。
だけど、と貴子は呟く。
何かの終わりは、いつだって何かの始まりなのだ。

夜のピクニック (新潮文庫)

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