小林秀雄全作品から(8)「批評について」

  • 昭和29年(1954年)6月「NHK教養大学」に発表

強い好奇心を持っている限り濫読というものは害はないと思う。

一と口に言えば、形式尊重の時期を経て、個性尊重の時が現れるに至って、批評は、作品の背後に人間を見る様になった。それまで一様な形式のなかで一様化されて見えなかった個性が形式を破って踊り出すというところを批評は問題にせざるを得なくなった。近代の文学批評は、個人の権利とか自由とかの思想を離しては考えられない。

サンド・ブープは批評精神の生命は座談とか雑談とかいうもののなかに在ると考えた。座談は、一人では出来ない、一人で勝手な事を言うのは告白である。座談には相手が要る。而も、論争ではないのであるから、理窟さえ正しければ相手を打ち負かせるという様な考えではお互に座談は始まらない。生き生きとした座談、雑談が進行するには、どうしても、自分で自由に談るとともに、相手の自由な意見も尊重して菊という態度がお互いに必要である。そういう自由な意見の交換や比較から生ずる生き生きとした判断に、批評の生命は宿っているという考えである。

サント・ブープの批評の上で行ったもう一つの大事な事は、次の彼の言葉が語っている。「分析し、採集する事。私は自然科学者だ。私の組織したいものは文学の博物史である」と。この言葉に明かな様に、彼の表向の批評の方法は客観主義なのである。ただ批評が自然科学と異る処は、前に書いた様に、その生命は生活の中にある生きた智慧や感受性にあるものであり、この命を殺さずに科学的な方法を利用するのはどうしたらよいかに問題があるのである。

小林秀雄全作品〈21〉美を求める心

小林秀雄全作品〈21〉美を求める心

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