今日の短編(50) トルーマン・カポーティ「最後の扉を閉めて」

逃げれば逃げるほど、敵は強く、大きく、恐ろしく見えるものだ。
自分に厳しくあることは、難しい。人間易きに流れるのは容易で、そこから流れをさかのぼっていくのは本当に困難だ。自分に優しく、人に厳しく生きていると、いずれ誰からも相手をされなくなる。自分には出来ない事、わかっていないこと、するつもりもないことを他人に要求して、納得してもらえるはずがない。自分のことを棚にあげて誰かに何かを要求するときには本当に気をつけなければいけないと思っている。根拠もなく自己像を肥大させ、他者とのコミュニケーションを断絶する、歪んだ姿がそこにはあるのだろう。。

たとえば彼は、Xという人間が好きなのか、嫌いなのか、はっきりわからない。自分はXに好かれたいと思っているのに、Xを好きになることは出来ない。Xに対して誠実にもなれない。ほんとうのことは半分もいえない。それでいてXが自分と同じ不完全さを持つことは許せない。そんな人間ならいずれXは自分を裏切るだろうとウォルターは確信した。彼はXを怖れた。恐怖した。

「ぼくだ、ウォルターだ」
「やあ、ウォルター」
あのけだるい、男とも女ともいえない、遠い声が、まっすぐに彼の井の底にまで届いた。部屋がシーシーのように揺れ、歪んでいるように見える。汗が口ひげのように上唇のところに吹き出た。「誰だ?」と彼はいった。ゆっくりといったので、言葉がつながっていないようだった。
「知っているくせに、ウォルター。長い付き合いじゃないか」そして沈黙。誰からかわからない電話はすでに切れていた。

夜の樹 (新潮文庫)

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