三善晃「もしかして」

このときの「もしか」は反射的でなかった。「もしか」の息のつまりそうな苦しさは、とても長く続いたように思う。だが私は、いつ、どうして桶を手にしたか、覚えていない。ただ、祖母の顔にかぶせた桶の上に、上半身の重みをかけてゆこうとする両腕の、妙に外開きな張り方は、今、私の両肘にそのまま蘇ってくる。
そして、私の耳は、あのとき、桶の下からきこえた、祖母の、かすかな念仏を思い出す。じつは、私の意識が「もしか」をふるい落としたのは、この念仏を聞いたためだった。祖母の体をまたいだ、そのままの位置で、私は桶から身を起こす。念仏の途切れに、桶の下から「押してくれ、押して……。」とつぶやく声がきこえた。梅の葉に、陽炎の残りがからんでいる。

「押しておくれ、あきらさん・・・・・・。」あの細い声と、汗の冷たい感触は、毎年の初夏に、私に戻ってくる。

高校生のための文章読本

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