小林秀雄全作品から(3) 「自由」

事物と、物事。身体と体と躯・・・言葉が違うということは、その意味するところのものにはなにかしらの違があるはず。しかしその我々がその差異を意識することはほとんどない。自由という言葉は懐の深い、たくさんのニュアンスを飲み込んでしまう言葉なのだろう。

  • 「自由」昭和29年(1954)1月「朝日新聞」に発表

英国人は、自由を言うのに、リバティーという言葉とフリーダムという言葉と二つ持っている。正しい語感を持った英国人なら、この二つの言葉の意味合いの、或はニュアンスの相違を、はっきり感得して使い分けていると言うのである。

人は、リバティーを与えられている。リバティーは市民の権利だ。だが、フリーダムという言葉は、そういう社会的な実際的な自由を指さない。それは全く個人的な態度を指す。フリーダムとはもともと抽象的な哲学的な語であって、フリーダムが外部から与えられるというようなことはない。与えられたリバティーというものを、いかに努力して生かすかは、各人のフリーダムに属する。自己を実現しようとする人は、必ず義務感と責任感とを伴うフリーダムを経験するだろう。例えば芸術家の、創造のフリーダムとはいうが、創造のリバティーとはいわぬ。リバティーとはフリーダムという価値の基盤に過ぎない、云々。

日本には自由という一語しかないのだが、それで、フランス人の様には、別段不便も感じていない様である。自由主義者になるのには、自由という一語しかない方が余程便利かもしれない。
(中略)
精神の自由は眼に見えない。黙々として個人のなかで働いているし、またそれは個人にしか働きかけない。精神の自由を集団的に理解することは出来ない。そういう事実が、実は、文化の塩となっているのであるが、文化問題について大風呂敷を拡げたがる人々には、精神の自由などは空言に聞えるのである。

小林秀雄全作品〈21〉美を求める心

小林秀雄全作品〈21〉美を求める心

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