小林秀雄全作品から(1) 「喋ることと書くこと」
- どんな語り口が適切なんだろう、ということは良く考える。しゃべくりっぱなしでは意味がない。自分の側に引き寄せて考えてもらわないことには始まらないよな。
- 1回きりの講演と違い、関係性は作っていける分、多少楽か。
- 意味の含有率は大事。
- 声に出して読むことも大事。丸読みでも点読みでも良い。頭だけじゃなくて、身体で感じるところがあると入り方が違う。
「喋ることと書くこと」昭和29年(1954)1月「新潮」に発表
昔は文章体と口語体とがはっきり分かれていたが、今の文学者は、皆口語体で書いているから、喋る事と書く事の区別が一般に非常に曖昧になって来ています。
菊池寛の講演が上手であったという一段で、
あの人の講演がいつも成功していたのは、話の内容に空疎なものがなかった事にもよるが、一番の原因は、いつも眼前の聴衆の心理を捉えていた、話すにつれて、聴衆はいろいろに反応するが、その反応をいつも見て取っていたところにあった。
(中略)
菊池さんの様子がユーモラスだと感ずる為には、菊池さんの作品を読んで、既にこの作家に親しみを感じていなければならぬ。つまり、この場合、聴衆は、われ知らず自分たちの教養の程度を笑い声によって表現して了う。
書くとは、自ら自由に感じ考えるという極まり難い努力が、理想的読者のうちで、書く都度に完了すると信ずることだ。
詩は言うまでもないが、散文にしても物語りだった。読まれたのではない、語られたのです。本は、歌われたり語られたりしなければその真価を現す事は出来なかったのです。
実は、文学者にとって喋る事と書く事とが、今日の様に離れ離れになって了った事はないという事実に注意すべきだと思います。
(中略)
昔は、名文と言えば朗々誦すべきものだったが、印刷の進歩は、文章からリズムを奪い、文章は沈黙して了ったと言えましょう。散文が詩を逃れると、詩も亦散文に近附いて来た。今日、電車の中で、岩波文庫版で「金 @ かい @ 集」を読む人の、考えながら感じている詩と、愛人の声は勿論その筆跡まで感じて、喜び或は悲しむ昔の人の詩とは何と言う違いでしょう。
優れた散文に、若し感動があるとすれば、それは、認識や自覚のもたらす感動だと思います。
散文の芸術は、芸術のうちで、一番抽象的な知的なものだ。活字から直接に感動に達する通路は全くない。活字は精神に、知性に訴えるものなのです。そして、ともすれば博学のうちに眠ろうとする知性を目覚まし、或は機械的な論証のうちに硬直しようとする精神に活を与えようとするものなのです。
- 作者: 小林秀雄
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 2004/06
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