今日の短編(45) 森鴎外「カズイスチカ」

タイトルの「カズイスチカ」(Casuistica)というのはラテン語で患者についての臨床記録という意味だそうだ。。

今やっていることは本当はやりたいことではないのだけれど、それが何なのかは良くわからない。という感覚は良くわかる。「とりあえず」「云々じゃね?」と言い切らない、断定しない言い方は、ここれと似た感覚をその根源としているのかもしれない。本当は一生懸命やりたくない言い訳に、別に上手くいかなくても本気じゃないもんね、ほんとはもっとできるんだもんねという根拠のない言い訳に過ぎなかったりするのだ。「一生懸命」に「無我夢中に」なにかをする体験ってできるだけ早いうちにたくさんしておいたほうが良いのだろうな、とテキストを離れて考えた。

森鴎外カズイスチカ」

翁は病人を見ている間は、全幅の精神を以って病人を見ている。そしてその病人が軽かろうが重かろうが、鼻風だろうが必死の病だろうが、同じ態度でこれに対している。盆栽を玩んでいる時もそのとおりである。茶を啜っている時もその通りである。
花房学士は何かしたい事若くはする筈の事があって、それをせずに姑く病人を見ているという心持である。
(中略)
始終何か更にしたい事、する筈の事があるように思っている。しかしそのしたい事、する筈の事はなんだか分からない。
(中略)
とにかく取留めのないものであった。それが病人を見る時ばかりではない。何をしていても同じ事で、これをしてしまって、片付けて置いて、それからというような考をしている。それからどうするのだか分からない。
そして花房はその分からない或物が何物だということを、強いて分からせようともしなかった。唯或時はその或物を幸福だというものだと考えて見たり、或時はそれを希望ということに結び付けて見たりする。その癖又それを得れば成功で、失えば失敗だというような処までは追求しなかったのである。

「下顎の脱臼は昔は落架風と云って、或る大家は整復の秘密を人に見られんように、大風炉敷を病人の頭から被かぶせて置いて、術を施したものだよ。骨の形さえ知っていれば秘密は無い。皿の前の下へ向いて飛び出している処を、背後うしろへ越させるだけの事だ。学問は難有ありがたいものじゃのう」

>>一枚板とは実に簡にして尽した報告である。智識の私に塁せられない、純朴な百姓の自然な口からでなくては、こんな詞の出ようが無い。あの報告は生活の印象主義者の報告であった。